尹 千浩

(ユン チョノ)

神奈川県、横浜市生まれ。かつては丸々と太ったふくよかな少年。

横浜市立神奈川中学校にてトランペットに出会い、それまで弾いていたバイオリンをあっさりと諦めトランペットに転向。もともとサックスがやりたかったが、人気がありすぎたのと、金管楽器の面白さにぴんときてトランペットを希望。当然、体格が大きいのでチューバに回されそうになるも、もっとでかかったKくんを無理やりスカウトすることでなんとかトランペットにありつく。

3年間、吹奏楽にストイックに打ち込む。多くのクラシックの名曲にこの時出会い、覚えるほどきいた。おこずかいは大抵CDに消えていった。

初めてかったCDはムーティ指揮、フィラデルフィア管によるローマ三部作。こんなカラフルな曲があるのかと聞きまくり、興奮しすぎてボリュームを上げ過ぎて姉に叱られる日々。

どうしても普門館で演奏したかったあの頃。部長も務めた中学3年時には東関東大会で金賞を収めるも、全国大会には一歩とどかず、初めての(これからたーくさん味わうという事実もしらず)挫折を味わう。自由曲はウォルトン作曲、ヘンリー5世組曲より。もう一生やらないだろうな。

その頃にはなんとなく、音楽の道に進みたいと思っており、しかしながらなかなかうんとは言ってもらえず涙ながらにお願いする。

その後、諦めた両親は織田準一氏の元でトランペットを本格的に学ぶことを許してくれる。(ありがとう)

たくさん練習するが、なかなかうまくならなかった。部活は先生の方針でできればやるなと言われてたので、帰宅部、というかラッパオタク部だった。自宅の和室が当時の練習室。熱心にやる息子を見かねて壊れていたエアコンを入れ替えてくれたっけ。

今思うと、近隣には相当うるさかったと思う。

残念ながら大学受験に失敗し、その後織田先生の心広き提案で現東京交響楽団首席奏者、佐藤友紀氏にも同時進行で師事。

一浪ののち、織田先生のご子息が通っていた愛知県立芸術大学音楽学部に合格。半ば諦めていたので合格発表は見に行かず、友達とスキー旅行にいっていた。そんな時に、合格電話がかかってくる。あの時はうれしかった。 

入学後、武内安幸氏に師事し、多くの失敗を繰り返しながら、今思えば学生でよかったという迷演も数多く残す。どうしてもオーケストラがやりたかった自分は一年生の終わりにアジアユースオーケストラのオーディションをこっそり受けて、チューバのF本とともに運良く合格。その後も縁あって小澤征爾音楽塾、PMFなどの音楽祭に参加する。

その時行ったPMF(パシフィックミュージックフェスティバル)で一緒だったLiam Dayというクリーブランドからきていたとても上手な青年に出会う。ラッパセクション全員アメリカから来た若者で(一人はブラジル人)、本当にすばらしいセクションだった。

これも縁だと思う。高校時代、交換留学のようなもので夏にシアトルに行ったことがあった。元々乗り気ではなかったのだが、世界が広がるというのはああいうことをいうのだろう。日本に帰るとすっかりアメリカかぶれになっていた。素晴らしい経験をして、次の夏も夢に見るくらいのアメリカ幻想があった。オーケストラもアメリカのサウンドが好きだったし、アメリカの音楽も好きだったし。そしてPMFの翌年の4月、Liamを訪ねて渡米。

しかしクリーヴランドは、シアトルではなかった。燦々と注ぐ太陽はなく、4月なのに雪が降っていたし、なんだかどんよりと悲しい感じのする街。。というか何もないところ。

しかし、オーケストラは本当に素晴らしく、未だにSeverance Hallできくあのオーケストラは私のサウンドのイメージの礎である。クリーヴランド管弦楽団首席奏者、マイケル・サックス氏に憧れ、街がぱっとしないということを忘れて渡米を決心する。


アメリカへ。